桂恋かもめ・正しい行い 028 【正しい決断 up and down】
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
ハムレットは悩んだ。
「上げるべきか、下げるべきか、それが問題だ」
ケンちゃんも悩んだ。
もう40年も前のこと・・
【びえいの丘】で有名な美瑛町から旭川市に向かう国道での出来ごと。
桂恋村は毎日のように冬晴れ、朝晩は-20度近くまでシバレる。
真冬の釧路川にゼニガタアザラシの赤ちゃんが遊びにやって来た。
そんなシバレる河畔の写真を眺めながら、昔ばなしをお聞きいただく。
ケンちゃんは私が住んでいたアパートのお隣さんだ。
同い年で、いつも意気投合、美瑛町は彼の生家を訪ねた。
彼のやさしいお母さん、マゴコロこもったご馳走をたらふくいただいた。
旭川に戻ろうと、車を走らしたのは夜も更けた11時頃だった。
積雪は1mほど、除雪のために道路の両側は壁の様に切り立っている。
急に雪が強い降りになり、フロントガラスもワイパーの拭き残しが出来る。
そのうちに、ボタ雪がワイパーブレードに団子のように絡み着く。
「あっ ワイパー落ちたべ~」
絡み着いた雪の重みで、左側のブレードがアームから外れて落ちたのだ。
停車して、落ちたブレードを探した。
強いボタ雪の中、真っ白になって探したが、雪に埋まって見つからない。
やむなくあきらめて、車内で一服、ワイパー無し運転の覚悟を決めた。
「冷えるな・・チビリそうだ!」
ケンちゃんの言葉に釣られて、二人で車外で用を足すことにした。
これが【旭川劇場・ハムレット】の開幕だった。
停車した先は農道に通じる交差点だった。
交差点の路肩、雪溜りの高くなった場所で、二人ならんで放水してると、
ダダーン ドサ バサッ
滑ったトラックが路側の雪溜りに突っ込んできた。
「うわっ おおっ!!!」
二人は雪と一緒に飛ばされ、路肩から5mほど下に転がり落ちた。
放水は緊急自動停止、リセットどころではない。
ほうほうの体で雪をかき分け登り、どうにか車に辿り着いた。
トラックは路肩から脱出、運転手は何も言わずに去って行った。
突然の出来事、二人は互いに怪我の無かった無事を安堵し、雪を払った。
「 お~お~ イタタ はさんだ」
物凄いケンちゃんの叫び声!!
何事かと見ると、股を左手で押さえて、妙なシャガミ腰。
放水窓を閉じる作業中、シャッターに放水銃を挟み込む事故が発生した。
皆さんご存じのように、放水銃は無数の毛細血管が集まる繊細な材質だ。
当然のこと、無数の神経細胞が網羅されているデリケートな構造なのだ。
「イタッ 上げるかな?? 下げるか?? イダダダ!!」
女性の皆さん・・バッグやジャケットのYKKを想像していただきたい。
うっかりして、バッグのYKKにハンカチを噛ませた経験がおありだろう。
YKKを右に、左に、ようやくスムーズに動きホットした経験はおありだ。
噛まれた方のハンカチは傷つき、破れ、棄てる破目になることもある。
けれど、放水銃は人類にとって大切な道具、
「傷ついたからもう用がない!!」と簡単にポイ捨てできない。
ケンちゃんはいつもニコニコ、やさしい温和な性格だ。
そのせいなのか、物事をスパット割り切る決断が出来ない。
この場合、思い切って上げても、下げても、傷口が広がる可能性が大だ。
ケンちゃんは、泣きべそ顔で悩んだ。
妙な歩き方で助手席に乗り込み、アパートに着くまでそのままでいた。
「痛いけど・・上げるか、下げるか?? どっちかにして外そうよ・・
明日一番で、病院に連れてってやるからよ」
泣きべそ顔のケンちゃん・・
私の言葉に小さくうなずき、妙な歩き方で自分の部屋に消えていった。
翌朝の4時頃、揺さぶられたので眼を覚ますと、
枕元にケンちゃんが股を両手で押さえて座っていた。
「思い切って外したよ・・痛かったし、今もズキン・ズキン痛いよ・・
病院まで頼むな・・血が出てるべ~ パンツの替えないかい??」
今のようにコンビニなんて便利なものはない。
朝からパンツの売ってる店がないから、私の洗いざらしのパンツを穿いた。
TVをボーツと見ていると、旅番組に【びえいの丘】が登場することがある。
今でも、40年も前のケンちゃんの生家を想いだす。
あの時ご馳走になった、お母さんの【水餃子】の旨さを忘れることはない。
そして、病院から帰ってきたケンちゃんの顔もはっきり憶えている。
うれしそうに笑いながら、私から借りたパンツを脱いで、真っ白な包帯を。
小さくて可愛い赤ちゃんのような放水銃だった。
あの時の【正しい決断】はどうだったのか??
上げたのか? 下げたのか? そう云えば、ケンちゃんに尋ねなかった・・
ケンちゃんは札幌にて悠々自適、二人のお孫さんにメロメロの毎日だ。